あらすじ・概要
過干渉な母親のもとで育ち、なんとかその重圧から脱出した著者。そんな著者も子どもを授かった。しかし、子育ての最中にも、「母」から受けた仕打ちがよみがえる。「こうあるべき」という固定観念を押し付けず、子どもを育てるにはどうすればいいのか。トラウマ持ちの著者の苦闘が始まる。
大事なのはときどき振り返ってみること
結局のところ、毒親とそうでない親を分ける境界線などないってことがよくわかります。
アガサ・クリスティの『春にして君を離れ』を思い出すものがあります。
著者は過干渉な母親に「こうあるべき」という固定観念を押し付けられ続けていたので、子どもにはそうしたくない、と強く願っています。
しかし子が「女の子だからピンク」と、「女の子らしさ」に執着するようになって戸惑ってしまいます。「女の子らしい」という固定観念に囚われるのはよくない、個性的に生きるべきだ、と。
よく考えればピンクやフリルやリボンに個性が宿っていないわけではありません。著者はそれが「押しつけ」だと気づきます。
この辺の心の動き、あーやってしまいそう……と思ってしまいます。「女は○○すべき」を否定したくて、「女は○○してはいけない」の方向性に行ってしまう。どちらも選べるのが自由のはずなのに、それを忘れてしまう瞬間があるんですよね。
結局のところ、毒親かそうでないかを分けるのは善意でも倫理でも優しさでもなく、ときどき立ち止まって自分の行動を振り返り、「おせっかいじゃないかな」「考えを押し付けてはいないかな」と自省できるかどうかなのだと思います。
親子関係に限ったことではないかもしれませんが。
A面・B面のたとえもわかりやすかったです。世間体や仕事がA面、自分を大切にしたり本音を言ったりするのがB面。どちらに落っこちても生きていけず、ふたつの間でバランスを取ることで社会を歩ける。バランスを取るのって難しいですよね。
著者の語りを読んでいて、自分の母のことを思い出しました。母はその母(私にとっては祖母)と折り合いが悪く、何かと愚痴を聞かされて育ちました。そして「お母さんにこうされたのが嫌だったから私はそうしない」と何度も言われました。
しかし正直なところ子どもとしてはそういう発言がどーでもよかったんですよね。別にやりたくないことをやれとは言わないけれど、母親のされて嫌なことと私のされて嫌なことって全然違うし。
母親のことを毒親だとは思わないしむしろ感謝してるんですが、親ってそういうところあるよね、と同時に思います。