あらすじ・概要
主人公は、余命いくばくもない母親のために、母親の動画をスマートフォンで撮りためていく。母親の死後その動画を編集して学校で映画として流すが、その結末は驚くべきもので……。生徒達から非難を浴びた主人公は、ある少女がきっかけとなってふたたび映画を編集し始める。
救われる自由も拒絶する自由もあるからフィクションは素晴らしい
創作すること、物語ることの素晴らしさを描きながら、根本的には「クソ映画」であるというものすごい作品でした。
いろんな解釈ができる作品だと思うけれど、自分なりの感想をここに書き残しておきます。
この作品はフィクションと現実が入り混じり、入れ子構造になっていて、どこまで作品の中で「嘘」で「現実」なのかわからなくなっています。
でもそういう語り方こそが主人公にとっての救いだったんだと思います。
現実は変えられないし受け入れるしかない。親に愛されないとか、親しい人が早くに死んだとか、好きな人にどうしても振り向いてもらえないとか、フィクションは事実を塗り替えることはできません。
でも事実をどう受け止め、解釈していくかは選べるし、フィクションはそれを助けてくれます。
物語ることによって、あるいはそれを見ることによって、自分のつらい過去を意味付けていくことができます。
だからこそこの世には都合のいい物語が必要なんですよね。
でもそれはそれとして、私たちには都合のいい物語を「ねーよ!」と拒絶して去る自由もあります。だって嘘だもんね。
現実は受け入れなければならないけれど嘘は拒絶していい。その部分もフィクションの救いだと思います。
だからこその爆発オチ、クソ映画オチなんじゃないでしょうか。
「さよなら絵梨」は「フィクションに救われる自由」と「自分を救ってくれるフィクションを拒絶する自由」の両方の肯定という離れ業をやっています。すごすぎる。
でもそれでこそ物語ることは人を救ってくれるんだ、という強いメッセージ性を感じます。
ルックバックのときは飛び交う感想が激しすぎて、「人の感想に影響されちゃいそうだから、Twitterが落ち着いてからゆっくり読もう」と思っていたんですが、そろそろ腰を据えて読んでもいい気がします。そう思えた作品でした。