「舞台『刀剣乱舞』義伝 暁の独眼竜」(以下『義伝』)をライブビューイングで見てきました。
舞台どころかライビュも落ちるし、結局一時間かけて遠くの映画館に見に行きました。あ~転売屋と転売屋から買った人は職場でうんこ漏らしてくれないかな。*1
話したいことはいろいろあるのですが、散漫になってしまいそうなのでこの記事では伊達刀たちの描かれ方、そしてそれに対する感想をまとめていきたいと思います。
でもこんなネタバレ記事を読むより、まず7月21日から始まる配信を見てくれ。
誰かに対して「強い」と評すること―大倶利伽羅―
大俱利伽羅があまり話さないキャラクターなので、彼の心情については見ている側が想像しなければなりません。そういう意味で大倶利伽羅の解釈はファンによって多岐にわたっています。
この『義伝』でもろくに話さない、さらに自分の心のうちとなると無言になってしまう彼ですが、歌仙兼定に言った「強い」という言葉は歌仙への賞賛だけではなく、彼の中の葛藤を示していると思います。
この舞台作品における「強さ」は「自分の物語と向き合うこと」「答えがわからなくても探し続けること」で、肉体的というより修道的な意味合いを持っているのだと思います。
彼にはこの時点で迷いがあって、「強さ」がなかったからこそ歌仙に「強い」と言ったのだと思います。
でも誰かに対して「強い」と言えることは、彼自身の中の「強さ」のイメージがはっきりとあるということで、そういうところはかっこいいいですね。
何でも全力で楽しむタフさ―燭台切光忠―
燭台切のタフなところって「どんな状況でも楽しもうという姿勢を忘れないこと」だと思います。人間の体をエンジョイしているけれど、たとえば猫に転生したとしても猫の生を楽しみそう。
燭台切は野菜を育てていても料理をしていても全力で、それに笑っちゃうところもあります。けれど裏返してみると、それは手を抜くことはかっこ悪いと思っているのではないでしょうか。
手を抜きたくないから野菜にも話しかけるしラーメン屋台も作る。「マジになるのはかっこ悪いから」と手を抜くことが一番かっこ悪いと知っている。コメディシーンははたから見ると面白お兄さんなんですが、よく考えてみると彼の「かっこ良く決めたい」とはどういうことかはっきりわかるシーンだと思います。
ムードメーカーでみっちゃんの理解者ー太鼓鐘貞宗ー
この作品で唯一、入手していない刀なので初めてキャラを知りました。テンション高い! 舞台映えするキャラクターだと思いました。彼が登場するだけでステージが明るくなります。
印象的だったのが、燭台切が何かに凝るあまり変なことをしても、太鼓鐘はそれを笑うことはないんですよね。すごく燭台切が目指す「かっこ良さ」を理解しているんだと思います。
太鼓鐘の前で、燭台切が子どもっぽくはしゃいでしまうのもよくわかる気がします。親友で相棒で一番の理解者なんですね……。そりゃ、ずっと顕現されるのを待つ気持ちもわかります。
ニコイチという言葉が本当に似合う二人でした。
まれびとたる自分がやらなければならないー鶴丸国永ー
『義伝』で最も株が上がった男、鶴丸国永(私の中で)。
彼は作中で、わざと強い敵に取り込まれて内部から隙を作り出そうとします。
鶴丸は、いろいろな主を転々として、物語が薄いと語ります。だからこそ、あの瞬間「自分がやらなければならない」と思ったんじゃないかと思います。
伊達に対して恩義は感じているけれど、すべてを捧げた主ではない。だからこそ鶴丸は、他の伊達刀ではなく自分が黒甲冑を引き受けなければならないと判断したのではないでしょうか。あれは鶴丸にしかできないことでした。
思い返せば太鼓鐘、燭台切、大俱利伽羅は見ていてかなり身内っぽさがあるけれど、鶴丸はその輪から少し離れて見つめているような気がします。
場所も主も変えて転々とし続けた鶴丸は、どこへ行っても「まれびと*2。」だった。そんな彼が、伊達、細川の他のキャラクターでは考えつかないトリックスター*3としてのやり口で舞台に勝利をもたらすのはしびれます。
鶴丸は本当に最高だった……惚れ直しました。
まとめ
結論:鶴丸がすごかった。
1時間かけて見に行って本当によかったです。幸せだな~。いまだに夢心地でふわふわしてます。
時間があれば他のキャラクターについても書きたいところなんですが、最近毎日読み終わる本の感想を書くのにいっぱいいっぱいなのであまり期待はしないでください。
配信はこちらから見れます(繰り返し)