あらすじ・概要
山の人たちに置き去りにされ、血のつながらない夫婦に育てられた万葉は、そこの大奥様の要請で赤朽葉家に嫁ぐことになった。千里眼を持つ万葉は、そこでさまざまな未来の幻を見てしまい……千里眼の祖母、漫画家の母、そして物語を持たない私の三世代で送る戦後の年代記。
物語を持たないことで縛られないこともできる
祖母・万葉編から未来を見通す「千里眼」が出てくるところで、この作品でリアリティというものはあまり重要視されていないことがわかります。
時系列が現代に近づくにつれて不思議な要素はなくなっていきますが、物語の中で「神話」という言葉が繰り返されるように、これは語り手である「私」のルーツの話、「今ここにいる」ための精神的よりどころの話なのだと思います。だから描かれていることが本当かどうかは大した問題ではありません。
なんだかんだで赤朽葉家に居ついてしまう万葉の友人のみどり、毛毬の男を片っ端から寝とる百夜など、キャラクターも「こんなやついないだろ」と思いつつ「神話」として提示されるとありのような気がしてきます。
サンカの人々に置き去りにされた万葉が千里眼によって赤朽葉家を助けるさまや、毛毬が漫画家として過酷な労働環境に身を置き、傾きかけた会社を救った様子に比べて、平成を生きる瞳子には大きな物語がありません。
この本を最初に読んだときは瞳子の「自分には物語はない」と悩む様子に共感し悲しんだけれど、今三十路になってから読み返すと違った印象を受けます。
瞳子は確かに物語はないですが、どうしても家のためにがんばらなければいけない圧力も、世の中の「こうあるべき」という固定観念に飲まれることもまだない。祖母・母と違って恋愛結婚できるかもしれないし、あるいは結婚せずに赤朽葉を終わらせることもできるかもしれない。
そう思うと、瞳子がつけられるはずだったあの名前にも納得がいきます。どこへ行くにしろ、瞳子はここから飛び立てる気がするんですよね。
読み返してやっぱり桜庭一樹の本でこれが一番好きだと再確認しました。面白かった。