あらすじ・概要
実の父親に奉公に出され、道頓堀の芝居茶屋にやってきた竹井千代は、そこで見た芝居に心を打たれて役者を目指す。女性ばかりの一座で下働きをしたり、映画に出演したりの過程を経て道頓堀に戻り、そこで鶴亀家庭劇という喜劇一座に所属する。そこには幼馴染、一平もいた。
「分かり合えない」ことは絶望ではない
味噌汁とご飯のような作品でした。バズったり話題をかっさらったりするような要素はなく、「ここを見てくれ」というシーンがなかなか説明しづらいです。しかしそれでも、ちゃんと面白かったです。
「頑張り屋の女性が周りの縁に助けられながらも夢を叶える」という、朝ドラ的人情ものの文脈でありながら、その根底には絶望や孤独が含まれています。
序盤から「もうこいつどうしようもないな」と思ってしまうクズ親、テルヲがその象徴的な存在です。少しだけいいところを見せるも、基本的に弱くてクズなのは変わりません。千代はそんな父親からときに捨てられ、自ら逃げ、彼が死を迎えるまで苦悩し続けることになります。
「そんな親なんて捨ててしまえばいい」と言うのは簡単ですが、それだけで千代の心が救済されるわけではない。かといって許しても救済されるわけではない。ろくでもない親を持った人間の惑いがリアルで悲しかったです。
テルヲのこともそうですが、この作品は「人は分かり合えない」という前提に立っていて、せりふで繰り返しそのことが述べられます。希望を描き、努力を描きながら、千代とテルヲ、みつえ、一平と「私とあなた」はどうしようもなく別の存在であることをことごとく示してきます。
一方で、分かり合えないことは絶望ではないということも同時に描かれます。千代は演じること、笑いを提供することを通して分かり合えない悲しみを癒していきます。そして、分かり合えないからこそ「演じる」という行為に意味があるのだとも。
喜びと悲しみはきれいに分けられるものではなく、マーブル模様のように交じり合い存在しています。でもそれは悪いこととは限りません。悲しみの中に喜びを見出すこともできます。おちょやんは白黒つけられない、「人生」の物語でした。
完全無欠の作品ではなく、ところどころツッコミどころはあるのですが、作品通しての人間への価値観がとても好きです。人の愛や優しさ、それでも存在する孤独を描いた作品でした。
久しぶりに朝ドラを感想できて楽しかったです。半年間お疲れさまでした。